「目を覚まして待つ」 04.12.05
ルカ21:29〜37
イエスさまは、「心が鈍くならないように注意しなさい」と、三つの
ことあげておっしゃいました。「放縦」は、我侭に生きようとすること
ですから、周囲に向かう心や愛が鈍くなります。「深酒」は、悲しみや
辛さに対して鈍くなるためにすることですが、同時に、喜びや希望に
対しても鈍くなってしまいます。「生活の煩い」は、煩いに心が縛られ、
心が重くなってしまい、それが生活全般に及びます。
あらゆる面でのしなやかな心が奪われます。これらの三つは、
私たちの心から、健やかさ、しなやかさ、軽やかさを失わせ、人に
対しても自分に対しても心を鈍くしていきます。
更に問題なのは、「イエスさまの前に立つこと」に対して心が鈍く
なってしまうことです(36節)。放縦によって、イエスさまを忘れます。
深酒や煩いを生み出すような悲しみや辛さに直面すると、自分が
見捨てられているかのように感じ、イエスさまが共にいてくださることを
疑い、共に生きていないと思い込んでしまいます。
私たちは何度も失敗をしますから、自分を責めたり、見捨てられても
当然だと開き直って、あきらめ、投げやりな心におおわれてしまうことが
あります。
イエスさまに対する心が鈍ると、人はいきいきと生きられません。
ですからイエスさまは、「あなたは、私の前で、私と共に生きる。
何があったとしても、あなたは最終的には私の前にしっかりと立ち、
そこで私があなたをしっかりと受け止める。
このことに心を鈍くしないように。」とおっしゃるのです。
「いつも目を覚まし祈りなさい」とおっしゃいます。目を覚まして何を
見るのでしょうか。それは、うろたえ、失敗し、「どうせ自分なんて…」と
開き直りたくなる者を、ご自分の前にしっかりと立たせてくださる
イエスさまのお姿です。「主はその人を立たせることがおできになります」
(ローマ14:4)。
また、そのイエスさまに立たせていただき、そこで生きる自分の姿を
見るのです。立たせて下さる主、立たせてもらう自分をしっかりと見る
とき、軽やかな嬉しさに包まれます。